名画座のように…

映画素人による備忘録的ブログ

第三回「パンチライン」

第三回レビュー「パンチライン

パンチライン
1988(米)
コロンビア映画
主演
 サリー・フィールド
 トム・ハンクス

 

******ネタバレ注意******

 

 

 

 

 明日のお笑いスターを夢見る者たちが夜毎集うステージ「ガス・ステーション」。その中でも図抜けた才能を発揮しているのが、トム・ハンクス演じるスティーブン。彼の才能に憧れるライラ(サリー・フィールド)は、それほど笑いを取れるわけでもなく、500ドルも出して怪しい人物からジョークを買う始末。


 ライラは良き亭主(ジョン・グッドマン)、娘も三人いて、主婦でありながら舞台に上がる毎日。一方スティーブンの方はといえば、父親のコネで入った医大から放校され、お笑いの才能のほかには何も手にしていない。


 スティーブンに近づき、お笑いのアドバイスを求めるライラ。最初は邪険にしていたものの、やがて彼女を導き、才能を引き出し、自信をも与えてくれる。
 その過程で、スティーブンがライラに抱くほのかな恋心…これが蒼く、切ない。


 スティーブンは才能至上主義者。才能こそ人間にとって一番素晴らしいもので、互いの才能を認めあえる事ががなによりも大切…そう考えている。

 

 だから…

 

 ライラの隠れた才能を認め、それ故に、そんなライラを好きになる。

 

 だけどライラは亭主、家庭持ち。亭主がお笑いに対する理解に乏しい、などと嘆いても、亭主や子供、家庭が大事であることに変わりはない。

 

 スティーブンはわかってないんだ、そのことを。亭主も昔は私のジョークに笑い転げていたのに、最近は私がお笑いに熱を上げるのに否定的なの、というような愚痴に、俺のほうがライラを理解している、俺のほうがふさわしい…そう感じてしまう哀れさよ。


 ライラにとってもちろん、人を笑わせることは大事。だけど、その為に家庭を捨てるなんて、ありえない。同じ位大事なものは、どちらも捨てられるはずもない。


 スティーブンはライラに亭主と別れて一緒になろう、と、プロポーズしますが、当然振られてしまう。でも本人は振られるまで、絶対自分の勝ちだと思っていたに違いないんだ…若いね…若すぎて泣ける…。

 

 でもねぇ…

 

 これ設定では多分22才と34才位なんだろうけど、この時のサリー・フィールドは40を優に超えているんですよね。でも、この映画の中での彼女の舞台はホントにキュート。惚れるのわかるなぁ…

 

 年齢も亭主も子供も関係ないなぁ…

 

 ストーリーの途中、テレビのプロデューサーかなんかが、スティーブンの舞台を観に来るのですが、なんとその日に限って、彼の父親も舞台を観にきていた。学校を放校処分になった事を隠している事や、家庭での父親との不和、不意打ち的なものもあったのでしょう、この日の彼はまったくさえず、うけないまま舞台を降りる…


 それに比べ、ラストの優勝者がテレビ出演が決まるというコンテストで、亭主が見に来ている中、見事に笑いを取ったライラ…家族と距離を置いているものと、暖かい家族に包まれているものとの対比があまりにも切ない。


 結局このコンテストは、ライラが一位になるのだけれど…

 その直前に亭主から

「優勝は君だよ 愛を込めて ジョン」

と、メモを貰っていたライラは、スティーブンに優勝を譲る。

 

 亭主に理解された事で、心がいっぱいになって、もうすべて満足した…

 

 裏を返しちゃうと

 

 貴方の愛に応えてあげられなかった。なにも持たない貴方に…

 

 て事ですけどね。

 

このラストをどう捕らえるかはその人次第でしょう。というか、同じ人でも見る時代によって異なる気がします。嫌いな人は嫌いかな。

 

 私もうんと昔にテレビで観たときは思いましたもん

 

 ライラ馬鹿じゃね?と(笑)

 

 家庭は大事でいいけど、それはそれとしてテレビ出ろよ、と、ね…あの頃は才能至上主義者だったのだな、私も…

 

 年を重ねると、いいラストだと素直に思えるようになりました。

 

 この間…「神ギ問」とかいうテレビ番組でしたっけ…

守るものがあるものと、守るものを何も持たないものはどちらが強いのか、というような疑問を扱っていた気がしますが…

 

 その手の話題はときどき出ますが、それを聞くたびに、私はこの映画を思い出すのです…

 

第二回「真夜中まで」

第二回レビュー「真夜中まで」

主演 真田広之
   ミシェル・リー
監督 和田誠
撮影 篠田昇


****ネタバレ注意*****

 

 


 ジャズトランペッターである真田広之演じる守山紘二が、ひょんなことからリンダ(ミッシェル・リー)が二人組の男(南部・大場…それぞれ岸辺一徳國村隼…実は悪徳警官)たちに襲われている現場に出くわし、助けを求められ、図らずも共に逃げるはめになるところからストーリーは展開してゆく。

 リンダは南部たちが恋人を殺した現場を目撃し、それを知られて二人に追われていた。と同時に、南部たちの悪事を暴こうとして恋人が殺された事を知っていて、その思いを引き継ごうという気持ちもあった。いわば逃走劇と復讐劇が入り混じった形で、ゆきずりの守山にすがる。
 守山には店で次のステージがあり、そこには守山の尊敬するG・P・サリバンが店にやってくる。彼に気に入られれば、彼のステージにゲストで呼んで貰える事だってあるかもしれない…そういう理由で、はじめのうち守山はリンダと行動を共にしたがらない。

 まぁこの辺は王道で、逃走劇に巻き込まれ、最初はいやいやながら、徐々に情が移り…といういわばお約束のパターン。全編に流れるジャズが心地よく、軽快なテンポで話は進む。

 と、いいたいところですが…なんていうんですかね、ジャズって、疾走感とあまり合わない気がするんです。個人的に。もちろんテーマがテーマだけに、選曲がジャズになるのは当たり前なのですが。

 また、この手のチェイス・ムービー的なものは、どうしてもストーリーを一本道にせざるを得ない。逃げなければならない理由。復讐したい理由。でも警察には話せない理由…いろいろな理由で主人公たちを一つの方向に誘う、というか追い込む。
 ぼーっと観ていると、それで十分楽しいのですが、レビューを書こう、と、決めて意気込んで観たりすると…一本道に導こうとするあまり生じるアラが目に付いてしまいますね。

 柴田理恵扮する面倒臭そうなファンから守山が逃げるのはいいとして、わざわざ一度は助けるのを断ったリンダの車に乗るところとか、ね。

 あるいは

ラスト近く、リンダが一人、恋人が仕掛けたビデオカメラを回収しに駐車場に行くのですが(で、同時期に南部も向かっているだろうからリンダの身が危ない)、大場に襲われている守山を助けた公安の戸塚(柄本明)が、①その場所を知ってるであろう大場を気絶させた上、②これまた場所を知ってる守山を先に助けに行かせ、③自分は大まかな場所しか知らないまま手配をかける、とことか。

 守山と一緒に行ったら、ラストシーンがなりたたないがためのご都合主義ってやつですな。

 そもそも戸塚が都合よく守山を助けに来たこと自体かなり不自然…。

 とはいえ、そんな細かいアラ、バリはあまり関係ありません。楽しめなかったわけではありませんよ。なにしろ出てるキャストがすごいですしね。

 しかもみんな若い(笑)

 唐沢寿明戸田菜穂、佐藤仁美、笹野高史高橋克実大竹しのぶ
 もたいまさこ小松政夫六平直政名古屋章、はては三谷幸喜!!

…そういえばなんとなく三谷作品的空気もありますね。チョイ役が派手だからかな…

 映画はタイムマシーン。こういう旧い邦画は、出演者を見て「若っっ!!」と思わず叫べるだけでも十分楽しい。


 まぁそれはそれで残酷な事でもあるのですが…


 この頃の真田広之は、文句無く格好良い。トランペッターという役も非常に似合っています。

 最初はクールなトランペッター。ライブで大竹しのぶがリクエストした「月の沙漠」を童謡なんてと冷たく拒む。が、リンダとの逃走中に、恋人に教わった一番好きな曲だと、彼女が「月の沙漠」を口ずさむ。

 ラストシーン、やや遅刻しながらもステージに戻ってきた守山は、最後に「月の沙漠」を演奏する。彼女のために…

 きれいな伏線の回収で、なかなかに美しいシーン。曲の終わりと共にエンドロールが粋ですね。

 いろいろ書きましたが、好きな作品。

 

 星で言えば★★★★☆はつけます。

第一回「CONTACT」

名画座のように…
第一回レビュー「CONTACT」

 まず、このブログを訪れてくれた貴方…本当にありがとうございます。
 映画を観るのはそれなりに好きですが、さりとてマニアという程でもない映画素人の私が、観た映画の感想等を綴っていくという「名画座のように…」
 名前の通り、今流行りの映画を一生懸命追いかけるという方向性ではなく、新旧ごちゃ混ぜに、その時観た映画の感想を無秩序に載せてゆくという雑多な(雑な?)方針で運用していくつもりでいます。自らの備忘録的なものも兼ねてのブログですが、訪れてくれた方にも愉しんで頂けたら、それは望外の幸せです。
 さて、前口上はこの位にして…

 

******以下ネタバレ注意!******

 

 

 

 記念すべき?第一回は「CONTACT」1997年の作品。
 監督はバック・トゥ・ザ・フューチャーなどで有名なロバート・ゼメキス天文学者であり宇宙の伝道師的な存在だった高名なカール・セーガンが唯一書いた同名の小説が原作。
 主人公はジョディ・フォスター演じるエレノア(エリー)=ハロウェイ博士。
 幼い頃から科学と数学に興味と才能を発揮。何事においても科学的、論理的に思考する彼女は、凛として素敵ではあるが、どこか哀しい。
 産まれた時に母親が他界。科学や星空に対して興味を持つきっかけを与えてくれ、自分を大切に育ててくれた父親までも子供の頃に失う。その不幸、悲しみから目を背けるかのように、天文学に邁進する彼女。子供の頃、天体望遠鏡での星空観察とアマチュア無線に夢中だった彼女は、大人になり、電波望遠鏡でSETI(地球外生命体)を探すことに明け暮れていた…


 この、子供の頃の興味をそのまま、大人になってもひきずっている生き方が、とても物悲しくうつります。よく言えば夢に生きる、夢を叶える生き方とも解釈できるのでしょうが、夢で心の空虚さを埋めようとしているのは明らか。こういう生き方をしている人は、なにかよほどのきっかけが無いと自らを変えようとはしないもの。


 そんな時現れるのが元神父の経歴を持つパーマー(マシュー・マコノヒー)。この映画のテーマ、科学と宗教の対比(対立といってもいい)がここで登場するわけです。二人は惹かれあい一夜を共にするのですが、まぁ二人の思考回路は根本的なところで相容れない。神の存在を信じるパーマーと、科学的に証明できないものは認めないエリー。ある時神の存在を「確かに感じた」というパーマーと「そう思いたかっただけじゃない?」というエリー。


 私、宗教家ではありませんが、説明できないもの=否定すべきものとは、どうしても考えたくないんですね。たとえば人と人との出会いに、偶然なんてないと、私は思っています。出会ったのにはなんらかの意味があるのだと。

 

 唯物論者に人は愛せない、というのが私の持論でして…

 

 話がそれました。


 ところで、エリーの研究はなにしろSETI、地球外生命体の痕跡を探るというものですから、なにかと風当たりが強いわけです。さまざまな妨害や予算カットなんかで研究を続ける事が困難になるのですが、そのギリギリのところでついに地球外生命体からの通信をキャッチする。


 知的生命体である事を示すために、素数を送ってくるところは興味深いですね。言語は違っても、数学的なものは宇宙不変…その通りと断言出来るほど数学に深くはないですが…2,3,5,7,11,13,17…なるほどドキドキする並びです。


 この発見の後、エリーの研究を邪魔していた上司…ドラムリントム・スケリット)に手柄を横取りされたり、と、色々あるのですが、通信の中に文書的なものがあるのがわかり、これを解読しようとするが上手くいかない。そんなとき、エリーの研究を資金援助しているハデンにミステリアスな感じで招かれ、文書解読のヒントをもらう。
 ここがこの脚本の不自然なところで、このハデンという人物がなぜそんなヒントを出せるのかが不明。昔々この映画を観たときは、その風貌も相まってなんらかの形で地球外生命体と関係のある人物か、とも思っていたけれど(「鉄腕バーディー」のアルタ人のような感じでね)、であるならばもう既に地球外生命体と「コンタクト」してるわけなのだから、やはりなにかおかしい。

 

 そこから導き出される結論は…しかないのだが…

 

 文書は一人乗りの宇宙船…というか少なくとも宇宙を移動する装置…の設計図らしいという事がわかり、アメリカはこれを建造する。
 そしてこれに乗る者を選ぶことになり、もちろんエリーも候補に入っていたのですが、最終選考で落とされる。選考委員になっていたパーマーの「神の存在を」信じていますか、という質問で。


 アメリカ…いや、世界中どこでも、無神論者は少数派なんですよね。日本ではあまり意識しませんが、神の存在というのは日本人の想像以上に強く人々の中に根付いている。
 かつて天空は神の住む世界で、それゆえ宇宙に出る話になると必ずといっていいほど宗教との絡みが出てきます。初めて宇宙にいったガガーリンといえばもちろん「地球は青かった」ですが「やはり神はいなかった」とも発言しているそうですしね(発言されられた?)。


 パーマーは、神を信じていない者を、人類の代表として選ぶことは出来なかった、と、彼女に理由を説明したけれど、もちろん、もう一つ意味があった。

 

 彼女と別れたくない、死んでほしくない

 

 そんな得体の知れない装置に乗ることは危険極まりないし、帰ってこられる保証もない。また、それが光速旅行だと仮定すると、相対性理論から見てもおそらく今生の別れ。
 そんな装置に、大切な人が乗ろうとしたら、貴方ならどうしますか。私なら全力で止める。あるいは立場が逆なら、全力で止めてくれる相手の存在が何より嬉しい。もちろん乗るのを止めるでしょう。そんな人が誰もいない、悲しい人生なら、乗るかな…


 さて、エリーの替わりに装置に乗ったドラムリンは、なんとこの計画に反対する宗教的テロリストの自爆テロに巻き込まれ死亡。
 計画は立ち消えかと思われたが、何故か北海道の根室に二機目の装置が作られていて、それに乗らないかと、彼女はハデンから持ちかけられる。


 物語はクライマックス。今度は装置は正常に作動し、実験は実行された。
 エリーを載せたカプセルはワームホールを抜け、宇宙を旅して、彼女の父親の姿をした地球外生命体と接触する。彼女が気絶している間に思考を読み、彼女が話しやすい外見、風景にしたという。
 そして、18時間後、彼女は戻ってくるのだが、地球で見守っている者たちにとっては、彼女が消えたのはわずか一秒程度だった。
 つまり、彼女は宇宙などには行っていない、と解釈するのが「科学的」には妥当で、彼女も自分の体験は「科学的」には夢、幻覚である可能性もある、と、認める。
 ハデンによる壮大な悪戯、というのが論理的考えると最も妥当なのではないかとも公聴会で指摘される。
 だがしかし、自分が体験したものは、確かにあった。そう「信じている」と、エリーは言い切る。


 どうやっても証明できないものを、肯定する立場…つまりその瞬間からエリーは宗教家と同じ立場になったのです。


 パーマーにエスコートされ、公聴会の会場を去るエリー。そこにはエリーの体験を「信じる」民衆が多数集まっていた。エリーを英雄、あるいは「神」のように称える人々。


 …案外、宗教というものはこのような出来事から産まれ出たのかもしれないですね。


 科学と宗教の違いはありますが、目指すところは同じ。真理の探求です。

 彼女を信じます。


 というパーマーの最後の言葉に、作り手が伝えたかった事が集約されている気がします。


 良質のSFだと思います。いつの日か、地球外生命体となんらかの形でコンタクトがあった時、必ず宗教との対比が議論され、そしてそのコンタクト自体が実は宗教の起源そのものではないかと、人々は考えさせられることでしょう。
 そして科学者でありながら、「科学万能主義」に警鐘を鳴らすカール・セーガン
 共産主義は宗教の否定から入り、替わりに拠って立つところを科学に求めた。だがそれも完全ではない。人々を支配する「道具」としての「宗教」を否定する事と、心の拠り所を否定する事は別の話なのだ、と、そう述べているように私は感じました。